夢迷い編 Novel by kana
カーンと、気持ちのいい音が辺りに響き渡る。
高く飛び上がった空き缶が弧を描いて落ちていったに違いない。
皆の足音がバタバタと遠ざかる中、一つだけ足音が少ない事に気付く。
「圭ちゃーん! ほら、早く早く!」
部長の魅音の声でその一つ少ない足音の主が圭一だという事がわかった。
「お、おう。結構飛んじまったけどいいのか!?」
「圭一さん、えらく弱気じゃありませんこと? それじゃあこのゲーム、負けたも同然でしてよ!」
沙都子の声が遠い。叫んでいた声もだんだん遠ざかっていっていたのだから、きっと走りながら叫んでいたのだろう。
「うるせー! 絶対沙都子が見つかるように仕向けてやるからな!」
ここにきてようやく圭一も走り出したようだ。
圭一の走る足音が遠ざかると、辺りはシンと静まり返ってしまった。
『百数えてからだからね!』
レナに言われた通り、しゃがみ込み目を手で覆ってやっと三十まで数え終わる。
缶蹴りをやる事になり、不幸なことにじゃんけんで一人負けしてしまったのだ。
沙都子がいつか自分がされた算数の問題を出してそれが解けたら……という方法をしようとしたけれど、圭一に止められてしまった。
「梨花ちゃんは頭が良いから、沙都子と違ってすぐに解いちゃうだろ」
だそうだ。
そりゃあ、何度も同じ世界を繰り返し、同じところを勉強しちゃえば頭だって良くなるわよ。
それだとすぐに皆の元へ行けるというのに、圭一が余計な事を言うから……。
あの長い昭和58年を乗り越えて初めての夏休み。
学校が休みでもあの部長が部活を休みにするわけがなく、初日からこうして集まり遊ぼうという話になった。
古手神社に集まってみたはいいものの、珍しく魅音が何をするのか決めてきていなかったためどうするかと迷っていたところ、羽入が嬉々として口にしたのが……
「あぅあぅ。僕は缶蹴りがやってみたいのです」
缶蹴りをしたことがないという羽入に魅音が過剰反応をし、今日の部活は缶蹴りに決定した。
人数が多いわけではないので神社の中から出ないという条件付きでだ。
私たちがする缶蹴りは独自のルールで行われる。
魅音はそれがさぞ当然のルールかのようにして羽入に説明していた。
羽入は初めてやる遊びが嬉しくて仕方がないようで、本当は自分が鬼をやりたかったと一人負けした私に嫌味を零していった。
……後で最近見つけた激辛キムチでも一気に食べてやろう。
「ひゃーっく! なのですよ」
やっとの事で数え終わり、皆に聞こえる声で言う。
立ち上がると長い間しゃがんでいたせいで、少しだけ足が痺れていたけれど、そんな事でハンデをくれる部活メンバーではない。
「みんな見つけてみーみー泣かしてやるのですよ」
不自然な程静かな神社内でそう呟くと皆を探しに行く。
一番近くにあるのが祭具殿なためそちらへ足を運ぶ。あまり缶から離れるのもよくないだろうし。
祭具殿には本来誰も近づかない。
けれど今回は羽入がいるのだ。きっとあの辺りに隠れて様子を伺っているに違いない。
絶対に一番に見つけてやろう……
そう決めたのだから後は探すだけだ。
本当ならばこの場で辛い物やワインを口にしてやると一瞬にして見つけられるのだけれど、手元にないのだから仕方がない。
どこにいるのだろう?
祭具殿の中なんかはやめてほしい。中に入っている間に缶を蹴られるなんて事があると困る……
そんな事を考えながら歩いていた時、祭具殿の後ろにある林が小さな音を立てて揺れた。
ほら、やっぱりいるんじゃない。
さっさと見つけて缶を蹴りに行こうと一歩踏み出すと意外な事に向こうの方からひょっこり顔を出した。
周囲を伺うようにして顔を出したのは予想通り羽入だ。
羽入はこちらを見て私に気付くとはっとした顔をした。
「羽入みーっけなのです」
そう言って駆け出そうとすると、羽入が大きなため息を吐いた。
それが珍しくてピタリと足が止まる。
「なんだ……。梨花でしたか。他のみんなは見つかりましたですか?」
慌てる様子を見せない羽入。どうしたのだろうか?
「なにそれ、作戦のつもり?」
そんな手には乗らない。今度こそと足を踏み出したとき、来た方向からカーンといった音。
「マズイ……蹴られたじゃない!」
「それは僕のセリフなのです!!」
はぁ? そう返そうとしたところで、羽入が勢いよく駆け出した。
やっぱり作戦だったんじゃない!!
缶を蹴った人物を突き止めなくてはいけないし、羽入にだって蹴られるのはごめんだ。
私は羽入の後を追って走り出す。絶対に私が勝ってやるんだから!!
缶を蹴ったのは魅音のようだ。
余裕の笑みを浮かべて、立て直した缶の上に足を置いている。
「そんなに油断して遠くまでいってちゃ、オジサンには勝てないよぉ?」
私たちが走って来たのに気付き、魅音はそう大きな声で話すとさっさと逃げてしまう。
すぐに追いかけて見つけてしまおうと走るけれど、缶を通り過ぎたところで再び蹴られた音が。
「あぅあぅあぅ!! 梨花、見張っていてください!」
「はあ!? そうよ、そもそもあんたを見つけているんだからそれで蹴ればいいのよ、って沙都子が蹴ったのね!」
振り返ると今度は沙都子が缶を蹴ったようだ。
ニヤリと笑うとアッカンベーっと舌を出していた。
「わたくしを捕まえてごらんあそばせー!」
カっとなり、沙都子を追いかける。するとすぐに圭一が姿を現した。
「げっ!! ちょっと早かったじゃねぇか!」
これはチャンス。羽入と圭一を一度に仕留める事が出来そうだわ。
圭一よりも速く走り、缶を蹴ろうとする。
足を後ろにそらせたとき、圭一が走りながら叫んだ。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお! 羽入ぅぅぅうううぅぅううううう!!! どっけぇええええええええええ!」
は? 羽入?
意味が分からずそのまま停止してしまうと、カンとまた缶が蹴られる音。
そして後ろから羽入が嬉しそうに言った。
「圭一と沙都子、みーっけなのです!」
羽入が缶を蹴ると、逃げる途中だった沙都子が足を止める。もちろん圭一もだ。
「ちょっと羽入! あんたが蹴ることは間違ってないけど、あんたが見つけたって宣言してどうするのよ!?」
魅音の説明は間違っていなかったし、その後いくつかレナも補足していた。
だから覚えていなかったのは羽入のようだ。
「あぅ……? 梨花、何を言っているのですか?」
「いや、だから……!」
「くそー。年下である羽入に負けるなんて情けないぜ。まあ、部活じゃ先輩だけどな」
「ふんだっ。わたくしと圭一さんは捕まってしまいましたけれど、魅音さんやレナさん、それにねーねーを捕まえる事は難しいですわよっ」
え……?
「あぅあぅ☆ 僕は全員見つけてしまうのですよ! 覚悟するといいのです。あぅ」
羽入はそう言うと腕まくりをする。
ちょっと待ってよ……意味が分からない!
「え? 圭一? 沙都子? 鬼さんはボクなのですよ? みー」
「羽入はこういった遊びには強いですから覚悟しないといけませんわね」
「だな。くそー。魅音達に今度こそ勝ってもらいたいもんだぜ」
「あぅあぅ。それじゃあ僕は引き続き探しに行くのです」
私の言葉が聞こえないようにして、圭一達の会話が進む。
状況が理解できず、魅音達を探しに行った羽入のあとを追って聞き出すしかないようだった。
「ちょっと羽入!! 止まりなさい!」
「梨花、今日は様子がおかしいのですよ」
「おかしい!? おかしいのはあんた達でしょう! 鬼があんたってどういう意味よ?」
「どういう意味も何も、僕がじゃんけんで一人負けしたので鬼をやっているのですよ。それは梨花も見ていたではありませんか」
「あんた……何言ってるの? じゃんけんで負けたのは私じゃない」
「梨花? 梨花がじゃんけんで負けたとしても、梨花はみんなには見えないのですから鬼にはなれないのですよ?」
羽入は困惑した表情で私にそう告げると、私の一歩前を歩き出す。
私は訳がわからず、羽入にそれ以上追求する事も出来ずにただそこで立ち尽くすしかなかった。
呆然と立ち尽くす私の様子に気づいたのか、羽入は周囲を伺った後こちらへと戻ってくる。
そして私の顔を覗き込むと額に手を当てた。
「梨花でも熱を出すのかと思いましたが……そういうわけではなさそうなのです。梨花、どうかしましたか? さっきから様子が変なのですよ」
「変って……変なのはあんたたちよ……」
「僕には梨花が言っている事が理解できないのです。梨花、沙都子達を探しに行くのに別行動をとった後、何があったのですか?」
ここにきてまたわからない言葉が並ぶ。
私が羽入と別行動? そもそも鬼は私で羽入は逃げるほうだ。その時点で別行動になる。
それに、私はまだ沙都子を探そうなんてしていなかった。
まずは羽入をって、祭具殿に行ったんじゃない。
「ちょっと……本当に意味がわからないわ。なんなの? これは皆で私を脅かそうとしているの?」
「梨花、落ち着いて下さい。僕にも一体どうしたものかわからないのです……。梨花がどうして自分が鬼で、今更圭一や沙都子と話そうとするのかも理解できないのです」
「ちょっと待ってよ……本当にどういうことなのよ……!?」
意味がわからず取り乱す。
その時、目の前の林が揺れレナが姿を現した。
「……!! レナ! ボクなのです。ボクの話を聞いて欲しいのですよ!!」
レナに駆け寄ると、レナは心配げな表情を見せ、口を開く。
「羽入ちゃん、どうかしたのかな、かな? 顔色が凄く悪いよ……」
レナは、目の前の私ではなく羽入に話しかけた。
それが悔しくて、認めたくなくて何度も何度も呼びかける。服の裾を引っ張ってみるが反応がない。
思わずその場に膝を着いてしまうしかなかった……
「あの。レナ……ごめんなさいなのです。お日様の光にやられたのか、少し眩暈がするのですよ」
「え?! じゃあ、ちょっと休んだ方がいいんじゃないかな。魅ぃちゃーん! 詩ぃちゃーん! 羽入ちゃんの具合が悪いみたいなのー!」
レナは誰も居ない方向へと声を上げる。
でももちろんそこには呼びかけたとおり、魅音と詩音がいたようで二人は同時に姿を見せると慌てたように駆け寄ってきた。
「えー!? さっきはあんなに元気だったじゃん。作戦とかじゃないよねー?」
「お姉、なんでもかんでもそうやって疑うのはよくないです。羽入ちゃま、大丈夫ですか? とりあえず圭ちゃん達の所へ戻りましょう」
「ごめんなさいなのです……」
「あちゃー、これは本気だねぇ。ごめんごめん、よしオジサンの肩を貸すよ!」
皆が羽入に手を貸す。土の上に膝をついた私なんかに目もくれず……
羽入が心配げに私のほうをチラリと見る。
そもそも羽入は具合なんて悪くないのだ。
羽入曰く、私の様子がおかしいので、話を聞きたいといったところだろう。
だから助けるのは本来私なのだ。
「……いいわ、さっさとあっちに行って頂戴。夜には帰るわ……」
「梨花、?」
「羽入ちゃん?」
「どうかしましたか?」
「……あ、いえ、なんでもない、のです」
羽入がそう答えると、皆は羽入を圭一達の元へと誘導する。
きっとその後は入江のところへ行くに違いない。
「そうだ……入江がいるじゃない!」
入江は私に女王感染者としてもっともっと協力して欲しいはずだ。
だから、この突然のいじめのような状況にだって、入江は参加できるはずがない。
どうして部活メンバーの様子がこうも変わってしまったのかが理解できないけど……
今は誰でも良いから、話をしたかった……
「……高野、クリニック?」
部活メンバーよりも早く着くようにと走りたどり着いた先は『入江診療所』ではなかった。
本来そう記されているはずの場所に書かれていたのは別の文字。
一瞬鷹野かと思ったが字が違う……。
戸惑いながらも中に入ると、お昼の休憩中のようで患者さんは誰も居ない。
おそらく奥の所長室でお昼を食べているのは入江ではなく『高野』という人物だろう。
私が知っている人は居ないか……? そう、鷹野はどこにいるのだろう?
鷹野はちゃんと看護婦としているのだろうか?
あいつの執念だ、きっと居るに違いない。
そんな事を考えつつ、そっと診察室を覗き込む。誰も居ない。
すると、奥の所長室から聴きなれた声が聞こえてきた。
「やだわ、ジロウさんったら。冗談は止めて欲しいわ」
「いや、冗談のつもりじゃないんだけどなー。あはは」
「お二人とも、私の前でいちゃいちゃされるとなんだか恥ずかしいですよ」
その声は紛れもなく鷹野に富竹に入江のものだ。
ちゃんと三人とも存在する!!
私は淡い期待と、そして嬉しさを抱きながら風を通すため空けられた扉を抜け所長室に入る。
そこには応接用の机でお素麺を食べている途中の三人が居た。
入り口に記された名前の人物が見当たらないが、そんな事はこの際どうでもいい。
「入江! ボクなのです!!」
所長室に入ってすぐ、入江に声をかける。
「それにしても、今日は暑いですねぇ。子供達も外に出にくいんじゃないでしょうか」
もう慣れてしまいそうな程に気持ちのいいスルー。
もちろん、それは鷹野たちも同じのようで呼びかけても入江が発した言葉に返事するだけで何も返してやもらえなかった。
「せんせー! 監督ー!」
そこに、魅音の声が響く。三人は何事かと顔を見合わせた後、慌てたようにして入り口へと向かっていった。
一人取り残された私は、ここに来てようやく理解する。
ここは私が今まで居た世界とは別の場所なのだ。
何故かこの世界には私は存在しないか、沙都子のように村八分状態のようだ。
それも、入江たちにまで無視される程度に。
それを考えると、前者の方が可能性としては高い。
そしてこの世界では幾多の世界で存在した入江診療所が存在しないようだ。
その代わりに高野という人が別に存在している……?
少しずつでも状況が掴めてくると冷静にもなれる。
皆に私が見えないのならかえって好都合だ。診察室に向かって皆の様子を観察するのもありだろう。
ただ、一つだけ理解しがたい疑問が残る。
「……私は、死んでしまったの?」
そう。気づきもしないうちに欠片世界を移動している。
と、いうことは私は前の欠片世界で死んでしまったという事になる。
いつ? どうして? 何があって?
全くわからない。そもそも、缶蹴りをしようと決まったときには既に世界が変わっていたのだろうか?
そして、私達が必死に切り開いた未来は、私が知らない形で終わりを迎えてしまった?
それだけが理解出来ずに疑問として残る。
「僕は平気なのですよ、あぅ」
診察室から羽入の声が聞こえる。
そっと顔を覗かせると、困ったように椅子に座らされているようだ。
「しかし……日射病は怖いですからね」
「あぅ。入江も鷹野も心配しすぎなのです」
「でも羽入ちゃん、さっきあんなに元気なかったじゃない」
「あぅあぅ。さっきは本当に暑さでぼーっとしていただけなのですよ」
どうやら、羽入が咄嗟に吐いた嘘が大事になりつつあるらしい。
鷹野はにこりと微笑むと、レナ達部活メンバーをとりあえず待合室へと移動させた。
鷹野が戻ってくると、羽入は困ったように溜息をつく。
「僕を心配してくれるのは嬉しいのですが、少し大げさ過ぎるのですよ」
「仕方がありません。あなたはオヤシロ様の生まれ変わり、と言われているくらいですしそれに我々にとってはあなたはなくてはならない存在なのですから」
入江がそう言うと、羽入は顔を俯かせる。
なるほど……入江機関はちゃんと存在しているようだ。
もう一つわかったのは、この世界では羽入がオヤシロ様の生まれ変わりとして存在し、女王感染者ということのようだ。
「本当に大丈夫なのですよ」
「それじゃあ、少しだけ検査しておきましょう? 日射病は怖いのよ?」
結局羽入はそれ以上何もいえなくなったのか、鷹野と入江に従い検査を受ける事になった。
血液検査の結果を待つ途中、羽入が私の姿を見つけ話しかけてくる。
最初、返事をするか迷ったがいつのまにか落ち着きを取り戻していた私はそっと羽入の隣へと移動した。
「さっきはごめんなさい」
「あぅ。僕こそ、あの状態の梨花を放っておくことになって申し訳ないのです」
「かなり落ち着いたわ」
「あぅあぅ。結局、さっきの梨花が言っていたのはどういうことなのですか?」
「……その話は、今夜しましょう。家はどこだったかしら?」
「家、とは何を言っているのですか?」
羽入は首を傾げる。
私が聞いているのは、沙都子と一緒に神社に住んでいるのかそれともこの世界は少し違って別の場所にいるのか、だ。
けれど羽入からすればおかしな質問に違いない。
どう返すか迷っていると、羽入は困った顔をしながらも、古手の実家に住んでいると教えてくれた。
そうか……この世界には両親も存在しているという事なのね。
それじゃあ沙都子はどうしているのか聞こうと思ったけれど、それはまた夜に聞けばいい話だ。
羽入に何も言わずに診察室を出て、部活メンバーの前を通りすぎるとそのまま羽入が住んでいるという古手の家へと向かう。
途中すれ違う人たちに挨拶をしてみたけれどやはり挨拶が返ってくるなんて事はない。
これは間違いなく前者の私が存在しない世界なのだ。
もう一つ考えている事があるけれど、これはあまり当たって欲しくないので考えないでおく。
来た道を戻り、古手の家に着くとなんとなく懐かしい香りがする。
それは何度も食べた事のある母のあまり美味しくない煮物の香りだ。
そっと、台所を覗くとそこには私が知っている母の後姿。
呼びかけてみようか迷ったけれど、それは今まで散々試して裏切られてきている。
母の姿を見て、ここが私の知っている世界ではないと確信したのだし、もういいだろうと台所から自室へと移動しようとした時、母がはっとした様子で振り返った。
「……お母さん?」
思わず呼びかけてしまう。
母は私がいる場所をじっと見詰めた後、首を傾げてまたコンロへと向き直ってしまった。
「お母さん、見えてるんじゃないの!? ねえ、こっち向いてよ!!」
一瞬でも期待を抱くと、こうして壊れてしまう。
私は母のエプロンを掴み何度も呼びかける。けれど、母のエプロンは揺れないし、そして何も気づかない。
「はは……そうよ、ね……何を期待しているのかしら……! 私は居ないのよね、そうよ。あんたの娘は羽入なんでしょう? あの、あうあういって普段頼りのない羽入が娘なのよね! ああ、期待した私が馬鹿だったわ!!」
ふらふらと自室へ向かい、羽入のベッドに転がり込む。
部屋の内装は、私の趣味と少しにしていて少し違う。そんな感じがまた気味悪い。
しばらくぼーっとしていると、部活メンバーの声が外から聞こえてくる。
窓から様子を伺うと、羽入を見送りに来たようだ。……ずいぶんなご身分じゃない。
それぞれ別れを告げると、羽入は玄関に入り今度は家の中にただいまの声が響く。
母の少し楽しげな声が耳に痛い。
「……梨花」
雑談を交わした後、自室へと羽入が戻ってくると私の姿を見て驚いたように呟く。
あの後何処に居るのかわからなかったのだろう。
「探しましたですよ」
「そう」
「お話は出来そうですか?」
「……その前に夕飯なんじゃない? あの人のことだから時間には煩いでしょう」
「お夕飯はいらないと言ってきたのです。レナのお家で頂いたって言ったら少し叱られましたが、それならいいって言ってもらったのです」
「そう。少しは柔らかくなったのね」
「……? お母さんはずっと前から変わっていないのですよ?」
「あっそ。あんたの母親になるとそうなるって事じゃない?」
「梨花、いい加減僕にもわかるように話をして欲しいのですよ……」
羽入はそう言うと、今にも泣きそうな顔をしてその場に座り込む。
そうだ。この世界の羽入にとって私の態度はイレギュラーに違いない。
私が羽入に当たったからといって何も生まれないのだ……。
「ごめん。正直私もちょっと戸惑っているのよ。だから、あんたに当たってしまうだけ。……いいわ、落ち着く。だからあんたも落ち着いて聞いて頂戴」
羽入はこくりと頷く。
私はゆっくりと、途中説明を交えながら私が元いた世界の事を話す。
私が八代目の女の子でそして、オヤシロ様の生まれ変わりだという事。
羽入はどうやらオヤシロ様らしいという事。
そして、入江機関というものが存在しそこは雛見沢での風土病を調べ、そこに所属する鷹野が実は黒幕で私を殺そうとしていた事。
幾多の世界で私は鷹野に殺され、(時には自殺もしたけれどそれは伏せておいた)羽入の力で何百年もの間同じ昭和58年を繰り返し、ようやく袋小路を破る事が出来たという事。
羽入は途中、わからない事は質問しそして鷹野の話にはやはり驚いていた。
私が両親不在で沙都子と一緒に暮らしていると口にすると、予想通り悲しげな表情を見せた。
一通り話し終わると、羽入はポロポロと涙を零す。
一気に話すべきではなかったのかもしれないけれど、聞いてもらわなくてはいけなかった。
しばらしくて羽入が落ち着きを取り戻し、今度は私が聞く側にまわる。
「えっと……簡単に言うと、僕と梨花の立場が逆、ということなのですか?」
「そうね。最後の世界ではあんたも表舞台に立ったけれど、他の世界では今の私の状態だったわ」
「そうですか……。それじゃあ、梨花の質問に答えていきますのです」
羽入は、私が聞き手に回る前に質問した事に答えていく。
「まずは、診療所の事なのです。梨花が元いた世界、というのでは所長が入江だったようなのですが、ここでは高野が所長なのです」
「所長の高野と、今日あそこにいた鷹野の関係は?」
「……? 今日、入江や富竹と一緒に居たのが所長の高野なのです。梨花の世界で高野は別の人だったのですか?」
「え……? でも鷹野の苗字は『鷹』に『野』でしょう?」
「いえ、高いの『高』なのです」
「意味がわからないわ……ごめん、続けて」
「あ、はい。風土病のことは僕も知っています。両親にも話はいっていますし、お母さんは最初反対していましたですが、高野の熱心な説得によって今は納得していますです。それと、沙都子ですが梨花の世界とは違って、新しいお父さんと上手く生活をして今は家族四人で北条の家に住んでいるのです」
「悟史も?」
「はい。梨花の世界では行方不明になるということですが、悟史はちゃんといます。今日いなかったのは、野球チームに所属していて、それの練習だったのです」
「そう。悟史がいても、しっかりできてるのね」
「……?」
他にも羽入は詩音と魅音の事も教えてくれた。
本来この事は二人だけの秘密のはずだったというのに、双子が入れ替わっていると部活メンバーにだけ明かされたらしい。
それは意外な事だった。
一番驚いたのは、鷹野と羽入の仲がいいという事だ。
けれど、元々沙都子とも仲がよかったのに、あいつは平気で沙都子までも殺している。
だから本当のところはわからないのだけれど。
羽入の話を整理し、ここが全く違う世界だということはわかった。
そして、私達の立場が入れ替わっているという事も。
この世界では私のほうがオヤシロ様、なのだ……
「じゃあ、今日のあの瞬間まで私はあんたとしか会話した事もない存在で、あんたが今聞いた私の世界での羽入と同じ事をしていたという事ね?」
「はいなのです。ただ、僕は今のところ殺されてはいませんから、欠片を移動するといったことはしていませんが……」
「ありがとう。これだけわかれば充分だわ……」
「梨花……僕を、恨んでいますですか?」
立ち上がった私を引き止めるように、羽入が問いかけてくる。
なんのことかわらかず、じっと見詰め返すと羽入は目を潤ませた。
「その……僕は、梨花の居場所を奪っているという事です。今まで僕は、梨花の事を変わった家族としか思っていませんでしたが、今の梨花にとって、僕のことは憎いと思うのです」
「……それは違うでしょ」
「梨花……」
「最初は本当に意味がわからなかったわ。けど、あんたが望んでこの世界を作ったわけではないのよね? だったらあんたを恨んだって仕方ないじゃない」
それだけ告げると、部屋から出て行く。
羽入は何も言わずに、ただそこに座っているだけのようだった。
本当ならば、いつも羽入がしていたようにすっと消えたいものだけど、まだ今の状態を使いこなせていない。
だから人間と同じで歩いて移動するしかないようだ。
玄関を出た時、ちょうど入れ替わりで鷹野がうちのチャイムを鳴らす。
羽入がさっき言っていたように、時折夕飯を一緒に食べるといった日なのだろうか?
鷹野とお母さんの会話に耳を傾ける事もしないで、そのまま歩き出す。
ふらりと立ち寄ったのは祭具殿。
何か戻れる手がかりはないかと中に入ってみる。
中は蒸し風呂のように暑く、一気に汗がにじんでくる。
なんとか手がかりがないかと探してみたけれど、何も見つからない。
ここにくれば元の世界の羽入となんとかして連絡が取れるかと考えてみたけれど、甘い考えだったようだ。 埃っぽい床に転び、そのままぼーっと天井を眺める。
羽入が言っていた通り、案外ここも落ち着くな。
そんな事を考えながら自然と眠りについていった……
翌朝、祭具殿の扉が開く音で目が覚める。
お父さんが祭具殿の中を掃除しに来たようだ。
久しぶりに見る父の背中は大きくて……飛びつきたくなったけれど我慢する。
祭具殿を出て、どこに行こうか迷っていると私を待ち構えていたかのようにして羽入が声をかけてきた。
「梨花、夕べは何処に行っていたのですか?」
「別にそう遠くには行っていなかったわ」
「心配したのですよ……?」
「そう、それはごめんなさい」
そっけなく返すと、羽入は一瞬戸惑った表情を見せたが、怒ったような表情に変わり私の腕を掴む。
「何!?」
「いいからついてくるのです!!」
ぐいぐいと私の手を引き、すれ違いざまに挨拶されても何も返さず羽入は歩き出す。
本気で振り払えば羽入になんて負けるわけがないのだけれど、何故か私はその手を振り払う事が出来ず手を引かれるがままについていった。
連れて行かれたのは高野診療所。
頭がおかしいとでも言って診せるつもりなのだろうか?
そんな事を言ってしまっては、羽入の方がおかしいと思われるのに。
「羽入? ちょっと、どうしてここなのよ!?」
「いいから梨花は黙ってついてくるのです!!」
羽入はまだ診察が始まっても居ないのに診療所に入ると、今度はノックもせず診察室に足を踏み入れる。 朝礼が行われていたのか、診察室には鷹野と入江がいた。
入江が驚いたように口をぽかんと開けているのとは対照的に、鷹野は何も言わずにっこりと微笑むと所長室の扉を開けた。
「入江先生、少しよろしいですか? 私は羽入ちゃんとお話がありますので」
「え? あ、はい……?」
入江が頷くと、鷹野は先に所長室へと入っていく。
羽入は入江に挨拶もせず、そのまま私の手を引いて鷹野の後に続いた。
私達が入ると、鷹野は扉を閉めさらに鍵をかける。
羽入にソファに座るように告げると私達はソファに腰掛けた。
鷹野は冷蔵庫からオレンジジュースの缶を出し机に並べる。
何故か、二つ……
「え!?」
「昨日言っていた子は隣に居るのよね?」
「はいなのです」
どうやら私の姿が見えているというわけではないらしい。
鷹野は私の前に立つと深々と頭を下げた。
「え? ちょっと、羽入、どういうことなの?」
「高野?! どうして頭を下げるのですか?」
こればっかりは羽入も予想外だったようで、私と同じく戸惑っている。
鷹野は頭を下げたまま震えた声でその理由を告げた。
「私を……高野三四を、助けてくださってありがとうございました……っ」
「私はね、一度死んでいるの」
やっと頭を上げてくれた鷹野は、落ち着いたようにして私の前に腰掛けるとそう話し出す。
鷹野の一言に私と羽入は思わず顔を見合わせた。
「あ、別に私がゾンビだとかそう言った話ではないのよ。ただね、私の両親は私が幼い頃に亡くなっているの。私の本名は美代子って言うんだけど、その時一緒に死んじゃったのよ。でね、それは最低な施設に入れられたわ。それを救ってくれたのが、高野一二三っていう人なの」
「高野の新しいお父さんなのですか?」
「お父さん、というよりはお爺ちゃんだったわ。その人に助けてもらえて、高野三四に生まれ変わったのよ。それからいろいろ知ったわ。この雛見沢の事もね。そして、いろいろあって私はここに来た。その時はね、本当はこの風土病を治すために来たんじゃなかったの。お偉いさんたちはね、この風土病を利用してある事をしようとしていた。私は、別にここの村がどうなろうと知った事じゃなかったわ。私はね。おじいちゃんの研究が認められて、二人で神になる事ができればそれでよかったの。最初はずっと、入江先生が所長としてくる話で通っていたわ。もうすぐ入江機関が完成する。そんな時、私は羽入ちゃんが言うオヤシロさまに出会ったの」
鷹野はそう言うと、小さな包みから一つの十円玉を取り出した。
羽入はそれをまじまじと見、そして首を傾げた。
「信じてもらえないでしょうけど、これはここの神様……オヤシロさまに宣戦布告をした時にお賽銭箱に投げたはずだった十円玉よ。それがね、弧を描いて戻ってきたのよ」
「どういうことなのですか?」
「驚いたわ。帰ってきた十円玉を拾うと、賽銭箱の向こうに一人の女の子が立っていたの。髪の長い女の子だった」
羽入は私のほうを見てもう一度鷹野を見る。
そういえば羽入が一度、鷹野に宣戦布告をされたと言っていた。その相手が私になったということだろうか。
「その子はとてもつまらなさそうに言ったわ。『この世界がほしいのならくれてやる。それがあんたの望む世界なら、いいじゃない。私はこの世界よりもっといい世界を知っている。この世界があんたの手によって滅ぶのならば、そっちに行くから好きにしなさい』ってね。凄く腹が立ったわ。だから、絶対に神になってやるって尚更思った。お前を神の座から引き摺り下ろしてやるともね」
鷹野の会った私は、もしかして私が居る世界を知っていたという事なの?
「でもね、気づいたの。おじいちゃんが言っていた神になるって、こういうことじゃないって。おじいちゃんはこの風土病を治そうとしていたの。名前を残すために研究をしていたけれど、私は違う形で残そうとしているんだって。オヤシロ様に言われて、それからがむしゃらになって、初めて気づいたの。オヤシロ様があの時私投げやりの言葉を掛けてくれたおかげで、私は入江機関の研究をとめることが出来た。お金はたくさんあったもの。殺されると思ったけど、あっちはあっちで私がこの村と心中することが怖かったみたいね」
「それで、高野はり……オヤシロ様に、感謝していると言っていたのですか?」
「ええ、そうよ。だから昨日羽入ちゃんが自分の友達が悩んでいるって話してくれたでしょう。そして、その相手がオヤシロさまだとも。最初は信じられないって思ったけど、オヤシロ様が元居た世界のことを聞いていくうちに信じたのよ」 鷹野はそう言うと、羽入に微笑みかけた。
羽入は私のほうへと向き直る。
「梨花、昨日の話は全て高野に話したのです」
「私があそこで終末作戦の準備を止めなければ、進む私の未来だったのよね」
鷹野はそう呟くと、彼女には似合わない涙を零す。
そしてまた、頭を下げると今度はもう言葉にならない謝罪を繰り返す。
彼女に助けが必要です。
そう、助けが必要だった。元居た世界ではそれが少し遅かっただけ。
鷹野にもっと早く救いの手が差し伸べていられたのなら……きっと、この世界のようにして彼女は過ごしていたに違いない。
私はすっと立ち上がると、泣きながら私に頭を下げている鷹野の頭を撫でる。
そして、この世界に来て初めての笑みを浮かべた。
「ボクが元いた世界でも、鷹野の事を責める人はもういないのです。ボクたちは皆、鷹野の帰ってくる席を空けて待っているのですよ。確かに鷹野はボクをいっぱいいっぱいイジメてくれましたが、それはもういいのです。ボクには新しい未来が切り開かれたのですから」
「……私を、許してくれるの?」
話が出来るわけがないのに、鷹野はまるで私の声が聞こえているかのようにして質問をする。
少し驚きはしたが、私はそれには何も言わず、大きく頷く。
「当たり前なのです。次の綿流しのお祭りこそ、一緒に遊ぶのです。そしてボクたち部活メンバーにやられて罰ゲームを受けるといいのですよ。それでぜ~んぶチャラなのです」
「あり、がと……っ」
鷹野はそう言って大粒の涙を零す。
それを手で拭ってやると、次第に胸の奥が熱くなる。
何事かと戸惑っていると、意識がふと遠のき羽入の声と鷹野の声が遠く感じた。
「ありがと……」
鷹野のその言葉が耳に残る。
「梨花!? 梨花!?」
その後に続く羽入の声。
ああ、もう、なんなのよ……
「……か……り……か!」
はっとして目を開けると、一気に眩しい光が目に入り思わず目を細める。
もう一度ゆっくりと目を開けると、がばっと何者かに身体を押さえ込まれた。
「な、何!?」
今度はなんなの!? そう口にしようとした時、耳元で泣き声が聞こえる。
「梨花ぁああ……! 梨花ぁぁあ!」
それが羽入のものだと気づくのに少し時間がかかった。
その後、次々と私の顔を覗き込まれる。
魅音、詩音、レナ、圭一、そして沙都子。
羽入を押しのけ、身体を起こすと周りから安堵の声が漏れる。
「いきなり倒れちゃうんだもん。びっくりしたよー」
魅音がそう言うと、圭一が隣で申し訳なさそうな顔をして頭を下げる。
「ごめん梨花ちゃん! まさか当たるなんて思っていなかったんだ……」
「圭ちゃん、梨花ちゃまのココ。コブになってますよ? どう責任取るつもりですか?」
「はぅ。梨花ちゃんのコブ痛そうだよ、大丈夫かな、かな?」
「圭一さん! 梨花がお嫁にいけなくなってしまったらどうするおつもりですの!?」
次々と皆が話し出す。羽入にいたっては死んでしまったんじゃないかと言い出すほどだ。
情況が理解できずにいると、レナがコブを撫でながら教えてくれた。
「梨花ちゃん、圭一君が蹴った缶に当たっちゃって、そのまま倒れちゃったんだよ。それでレナたちが駆け寄ってもお返事がないから、監督を呼ぼうって話になっていたところだったの」
「ボクは……戻ってこれたのですか?」
そうポツリとつぶやくと、羽入が首を傾げる。
もしかしてあれは夢……?
「とりあえず、一度監督に見てもらったほうが良いね。梨花ちゃん、立てるかい?」
「大丈夫なのですよ、みー」
スカートについた葉っぱを払い立ち上がる。
辺りは最初に缶けりをしていた場所と変わっていない。
という事は、本当に私は缶を頭にぶつけて気を失っていただけなのだろうか?
「羽入……ここは、昭和58年の夏よね? 皆で袋小路を破った先の、58年よね?」
私が小声で問いかけると、羽入はよくわからないといった表情を見せながらこくりと頷いた。
「梨花? どうかしましたですか?」
「……いえ、なんでもないわ」
あれは本当に夢だったのだろうか?
手のひらに震えた鷹野頭の感触がまだ残っている。
耳には許しを請う鷹野の声が残っている……
入江のところへ向かおうと歩き出す部活メンバーの呼びとめ、私は一つの提案を口にした。
「鷹野にお手紙を書くのですよ」
それはとても突発的なもの。
だからみんなはキョトンとした顔を見せ、顔を見合わせる。
けれどその中でも魅音だけがニヤリと笑うと手を挙げ声高らかに宣言した。
「ってことで! 誰が一番鷹野さんに早く戻ってきたくなるような手紙を書けるか競争だよ! もちろんビリには罰ゲーム!」
「それはいいですね。監督の話では、ここに戻ってくるのは渋っているようですし。悟史くんのこともありますから来年の綿流しまでには戻ってきてもらわないと」
「はぅ~。罰ゲームって何かな、かな」
「きっと鷹野さんの実験台にされてしまうに違いないですわ」
「あぅあぅ、それは嫌なのですよー」
魅音がそう宣言したのだから、部活メンバーが盛り上がらないわけがない。
「で、いいよね? 梨花ちゃん」
その問いに頷かないわけがなく……
私はなんとか、別世界での鷹野との約束を守る事が出来そうだ。
「鷹野さん、具合はどうだい?」
白い病室にいつもの時間、いつもの来客が訪れる。
最初の頃はただ泣いているだけだった彼女もいつの間にか笑顔を見せるようになった。
「今日は調子が良いわ……。いつになったら私への検査は終わるのかしらね」
「それは、僕にはわからないよ」
彼女……鷹野三四はぼーっと窓の外の景色を見ながら、優しく微笑む。
「ねえ、ジロウさん。なんだか今日はとてもいい夢を見た気がするの」
「へえ。どんな夢だい?」
「いい夢だった気がするんだけど、覚えていないのよ」
「なるほど、だから気がするなんだね」
「ええ」
鷹野は何かをふと思い出したかのようにして、テーブルの上にあるペンに手を伸ばす。
そして、富竹の方へと向き直ると小さく微笑むと口を開いた。
「ジロウさん、次に来る時で良いから便箋を買ってきてはもらえないかしら」
「便箋? またどうして……」
「なんとなく、よ。ちょっと手紙が書きたくなっただけ」
富竹は不思議そうな顔をしたが、その事を了承し手帳に『便箋 鷹野』と記した。
もうすぐ入江の手から鷹野宛に六通の手紙が届くなんて事は知るわけもなく……
『鷹野へ
いつまでも拗ねていないで早く落とし前をつけに来てもらいたいものなのです。
来年の綿流しにはボクたち部活メンバーとまた戦ってくださいなのです。
罰ゲームでみーみー泣かせてやるのですよ。
早く元気になってくださいなのです。
梨花』
<FIN>
あとがき
高く飛び上がった空き缶が弧を描いて落ちていったに違いない。
皆の足音がバタバタと遠ざかる中、一つだけ足音が少ない事に気付く。
「圭ちゃーん! ほら、早く早く!」
部長の魅音の声でその一つ少ない足音の主が圭一だという事がわかった。
「お、おう。結構飛んじまったけどいいのか!?」
「圭一さん、えらく弱気じゃありませんこと? それじゃあこのゲーム、負けたも同然でしてよ!」
沙都子の声が遠い。叫んでいた声もだんだん遠ざかっていっていたのだから、きっと走りながら叫んでいたのだろう。
「うるせー! 絶対沙都子が見つかるように仕向けてやるからな!」
ここにきてようやく圭一も走り出したようだ。
圭一の走る足音が遠ざかると、辺りはシンと静まり返ってしまった。
『百数えてからだからね!』
レナに言われた通り、しゃがみ込み目を手で覆ってやっと三十まで数え終わる。
缶蹴りをやる事になり、不幸なことにじゃんけんで一人負けしてしまったのだ。
沙都子がいつか自分がされた算数の問題を出してそれが解けたら……という方法をしようとしたけれど、圭一に止められてしまった。
「梨花ちゃんは頭が良いから、沙都子と違ってすぐに解いちゃうだろ」
だそうだ。
そりゃあ、何度も同じ世界を繰り返し、同じところを勉強しちゃえば頭だって良くなるわよ。
それだとすぐに皆の元へ行けるというのに、圭一が余計な事を言うから……。
あの長い昭和58年を乗り越えて初めての夏休み。
学校が休みでもあの部長が部活を休みにするわけがなく、初日からこうして集まり遊ぼうという話になった。
古手神社に集まってみたはいいものの、珍しく魅音が何をするのか決めてきていなかったためどうするかと迷っていたところ、羽入が嬉々として口にしたのが……
「あぅあぅ。僕は缶蹴りがやってみたいのです」
缶蹴りをしたことがないという羽入に魅音が過剰反応をし、今日の部活は缶蹴りに決定した。
人数が多いわけではないので神社の中から出ないという条件付きでだ。
私たちがする缶蹴りは独自のルールで行われる。
魅音はそれがさぞ当然のルールかのようにして羽入に説明していた。
羽入は初めてやる遊びが嬉しくて仕方がないようで、本当は自分が鬼をやりたかったと一人負けした私に嫌味を零していった。
……後で最近見つけた激辛キムチでも一気に食べてやろう。
「ひゃーっく! なのですよ」
やっとの事で数え終わり、皆に聞こえる声で言う。
立ち上がると長い間しゃがんでいたせいで、少しだけ足が痺れていたけれど、そんな事でハンデをくれる部活メンバーではない。
「みんな見つけてみーみー泣かしてやるのですよ」
不自然な程静かな神社内でそう呟くと皆を探しに行く。
一番近くにあるのが祭具殿なためそちらへ足を運ぶ。あまり缶から離れるのもよくないだろうし。
祭具殿には本来誰も近づかない。
けれど今回は羽入がいるのだ。きっとあの辺りに隠れて様子を伺っているに違いない。
絶対に一番に見つけてやろう……
そう決めたのだから後は探すだけだ。
本当ならばこの場で辛い物やワインを口にしてやると一瞬にして見つけられるのだけれど、手元にないのだから仕方がない。
どこにいるのだろう?
祭具殿の中なんかはやめてほしい。中に入っている間に缶を蹴られるなんて事があると困る……
そんな事を考えながら歩いていた時、祭具殿の後ろにある林が小さな音を立てて揺れた。
ほら、やっぱりいるんじゃない。
さっさと見つけて缶を蹴りに行こうと一歩踏み出すと意外な事に向こうの方からひょっこり顔を出した。
周囲を伺うようにして顔を出したのは予想通り羽入だ。
羽入はこちらを見て私に気付くとはっとした顔をした。
「羽入みーっけなのです」
そう言って駆け出そうとすると、羽入が大きなため息を吐いた。
それが珍しくてピタリと足が止まる。
「なんだ……。梨花でしたか。他のみんなは見つかりましたですか?」
慌てる様子を見せない羽入。どうしたのだろうか?
「なにそれ、作戦のつもり?」
そんな手には乗らない。今度こそと足を踏み出したとき、来た方向からカーンといった音。
「マズイ……蹴られたじゃない!」
「それは僕のセリフなのです!!」
はぁ? そう返そうとしたところで、羽入が勢いよく駆け出した。
やっぱり作戦だったんじゃない!!
缶を蹴った人物を突き止めなくてはいけないし、羽入にだって蹴られるのはごめんだ。
私は羽入の後を追って走り出す。絶対に私が勝ってやるんだから!!
缶を蹴ったのは魅音のようだ。
余裕の笑みを浮かべて、立て直した缶の上に足を置いている。
「そんなに油断して遠くまでいってちゃ、オジサンには勝てないよぉ?」
私たちが走って来たのに気付き、魅音はそう大きな声で話すとさっさと逃げてしまう。
すぐに追いかけて見つけてしまおうと走るけれど、缶を通り過ぎたところで再び蹴られた音が。
「あぅあぅあぅ!! 梨花、見張っていてください!」
「はあ!? そうよ、そもそもあんたを見つけているんだからそれで蹴ればいいのよ、って沙都子が蹴ったのね!」
振り返ると今度は沙都子が缶を蹴ったようだ。
ニヤリと笑うとアッカンベーっと舌を出していた。
「わたくしを捕まえてごらんあそばせー!」
カっとなり、沙都子を追いかける。するとすぐに圭一が姿を現した。
「げっ!! ちょっと早かったじゃねぇか!」
これはチャンス。羽入と圭一を一度に仕留める事が出来そうだわ。
圭一よりも速く走り、缶を蹴ろうとする。
足を後ろにそらせたとき、圭一が走りながら叫んだ。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお! 羽入ぅぅぅうううぅぅううううう!!! どっけぇええええええええええ!」
は? 羽入?
意味が分からずそのまま停止してしまうと、カンとまた缶が蹴られる音。
そして後ろから羽入が嬉しそうに言った。
「圭一と沙都子、みーっけなのです!」
羽入が缶を蹴ると、逃げる途中だった沙都子が足を止める。もちろん圭一もだ。
「ちょっと羽入! あんたが蹴ることは間違ってないけど、あんたが見つけたって宣言してどうするのよ!?」
魅音の説明は間違っていなかったし、その後いくつかレナも補足していた。
だから覚えていなかったのは羽入のようだ。
「あぅ……? 梨花、何を言っているのですか?」
「いや、だから……!」
「くそー。年下である羽入に負けるなんて情けないぜ。まあ、部活じゃ先輩だけどな」
「ふんだっ。わたくしと圭一さんは捕まってしまいましたけれど、魅音さんやレナさん、それにねーねーを捕まえる事は難しいですわよっ」
え……?
「あぅあぅ☆ 僕は全員見つけてしまうのですよ! 覚悟するといいのです。あぅ」
羽入はそう言うと腕まくりをする。
ちょっと待ってよ……意味が分からない!
「え? 圭一? 沙都子? 鬼さんはボクなのですよ? みー」
「羽入はこういった遊びには強いですから覚悟しないといけませんわね」
「だな。くそー。魅音達に今度こそ勝ってもらいたいもんだぜ」
「あぅあぅ。それじゃあ僕は引き続き探しに行くのです」
私の言葉が聞こえないようにして、圭一達の会話が進む。
状況が理解できず、魅音達を探しに行った羽入のあとを追って聞き出すしかないようだった。
「ちょっと羽入!! 止まりなさい!」
「梨花、今日は様子がおかしいのですよ」
「おかしい!? おかしいのはあんた達でしょう! 鬼があんたってどういう意味よ?」
「どういう意味も何も、僕がじゃんけんで一人負けしたので鬼をやっているのですよ。それは梨花も見ていたではありませんか」
「あんた……何言ってるの? じゃんけんで負けたのは私じゃない」
「梨花? 梨花がじゃんけんで負けたとしても、梨花はみんなには見えないのですから鬼にはなれないのですよ?」
羽入は困惑した表情で私にそう告げると、私の一歩前を歩き出す。
私は訳がわからず、羽入にそれ以上追求する事も出来ずにただそこで立ち尽くすしかなかった。
呆然と立ち尽くす私の様子に気づいたのか、羽入は周囲を伺った後こちらへと戻ってくる。
そして私の顔を覗き込むと額に手を当てた。
「梨花でも熱を出すのかと思いましたが……そういうわけではなさそうなのです。梨花、どうかしましたか? さっきから様子が変なのですよ」
「変って……変なのはあんたたちよ……」
「僕には梨花が言っている事が理解できないのです。梨花、沙都子達を探しに行くのに別行動をとった後、何があったのですか?」
ここにきてまたわからない言葉が並ぶ。
私が羽入と別行動? そもそも鬼は私で羽入は逃げるほうだ。その時点で別行動になる。
それに、私はまだ沙都子を探そうなんてしていなかった。
まずは羽入をって、祭具殿に行ったんじゃない。
「ちょっと……本当に意味がわからないわ。なんなの? これは皆で私を脅かそうとしているの?」
「梨花、落ち着いて下さい。僕にも一体どうしたものかわからないのです……。梨花がどうして自分が鬼で、今更圭一や沙都子と話そうとするのかも理解できないのです」
「ちょっと待ってよ……本当にどういうことなのよ……!?」
意味がわからず取り乱す。
その時、目の前の林が揺れレナが姿を現した。
「……!! レナ! ボクなのです。ボクの話を聞いて欲しいのですよ!!」
レナに駆け寄ると、レナは心配げな表情を見せ、口を開く。
「羽入ちゃん、どうかしたのかな、かな? 顔色が凄く悪いよ……」
レナは、目の前の私ではなく羽入に話しかけた。
それが悔しくて、認めたくなくて何度も何度も呼びかける。服の裾を引っ張ってみるが反応がない。
思わずその場に膝を着いてしまうしかなかった……
「あの。レナ……ごめんなさいなのです。お日様の光にやられたのか、少し眩暈がするのですよ」
「え?! じゃあ、ちょっと休んだ方がいいんじゃないかな。魅ぃちゃーん! 詩ぃちゃーん! 羽入ちゃんの具合が悪いみたいなのー!」
レナは誰も居ない方向へと声を上げる。
でももちろんそこには呼びかけたとおり、魅音と詩音がいたようで二人は同時に姿を見せると慌てたように駆け寄ってきた。
「えー!? さっきはあんなに元気だったじゃん。作戦とかじゃないよねー?」
「お姉、なんでもかんでもそうやって疑うのはよくないです。羽入ちゃま、大丈夫ですか? とりあえず圭ちゃん達の所へ戻りましょう」
「ごめんなさいなのです……」
「あちゃー、これは本気だねぇ。ごめんごめん、よしオジサンの肩を貸すよ!」
皆が羽入に手を貸す。土の上に膝をついた私なんかに目もくれず……
羽入が心配げに私のほうをチラリと見る。
そもそも羽入は具合なんて悪くないのだ。
羽入曰く、私の様子がおかしいので、話を聞きたいといったところだろう。
だから助けるのは本来私なのだ。
「……いいわ、さっさとあっちに行って頂戴。夜には帰るわ……」
「梨花、?」
「羽入ちゃん?」
「どうかしましたか?」
「……あ、いえ、なんでもない、のです」
羽入がそう答えると、皆は羽入を圭一達の元へと誘導する。
きっとその後は入江のところへ行くに違いない。
「そうだ……入江がいるじゃない!」
入江は私に女王感染者としてもっともっと協力して欲しいはずだ。
だから、この突然のいじめのような状況にだって、入江は参加できるはずがない。
どうして部活メンバーの様子がこうも変わってしまったのかが理解できないけど……
今は誰でも良いから、話をしたかった……
「……高野、クリニック?」
部活メンバーよりも早く着くようにと走りたどり着いた先は『入江診療所』ではなかった。
本来そう記されているはずの場所に書かれていたのは別の文字。
一瞬鷹野かと思ったが字が違う……。
戸惑いながらも中に入ると、お昼の休憩中のようで患者さんは誰も居ない。
おそらく奥の所長室でお昼を食べているのは入江ではなく『高野』という人物だろう。
私が知っている人は居ないか……? そう、鷹野はどこにいるのだろう?
鷹野はちゃんと看護婦としているのだろうか?
あいつの執念だ、きっと居るに違いない。
そんな事を考えつつ、そっと診察室を覗き込む。誰も居ない。
すると、奥の所長室から聴きなれた声が聞こえてきた。
「やだわ、ジロウさんったら。冗談は止めて欲しいわ」
「いや、冗談のつもりじゃないんだけどなー。あはは」
「お二人とも、私の前でいちゃいちゃされるとなんだか恥ずかしいですよ」
その声は紛れもなく鷹野に富竹に入江のものだ。
ちゃんと三人とも存在する!!
私は淡い期待と、そして嬉しさを抱きながら風を通すため空けられた扉を抜け所長室に入る。
そこには応接用の机でお素麺を食べている途中の三人が居た。
入り口に記された名前の人物が見当たらないが、そんな事はこの際どうでもいい。
「入江! ボクなのです!!」
所長室に入ってすぐ、入江に声をかける。
「それにしても、今日は暑いですねぇ。子供達も外に出にくいんじゃないでしょうか」
もう慣れてしまいそうな程に気持ちのいいスルー。
もちろん、それは鷹野たちも同じのようで呼びかけても入江が発した言葉に返事するだけで何も返してやもらえなかった。
「せんせー! 監督ー!」
そこに、魅音の声が響く。三人は何事かと顔を見合わせた後、慌てたようにして入り口へと向かっていった。
一人取り残された私は、ここに来てようやく理解する。
ここは私が今まで居た世界とは別の場所なのだ。
何故かこの世界には私は存在しないか、沙都子のように村八分状態のようだ。
それも、入江たちにまで無視される程度に。
それを考えると、前者の方が可能性としては高い。
そしてこの世界では幾多の世界で存在した入江診療所が存在しないようだ。
その代わりに高野という人が別に存在している……?
少しずつでも状況が掴めてくると冷静にもなれる。
皆に私が見えないのならかえって好都合だ。診察室に向かって皆の様子を観察するのもありだろう。
ただ、一つだけ理解しがたい疑問が残る。
「……私は、死んでしまったの?」
そう。気づきもしないうちに欠片世界を移動している。
と、いうことは私は前の欠片世界で死んでしまったという事になる。
いつ? どうして? 何があって?
全くわからない。そもそも、缶蹴りをしようと決まったときには既に世界が変わっていたのだろうか?
そして、私達が必死に切り開いた未来は、私が知らない形で終わりを迎えてしまった?
それだけが理解出来ずに疑問として残る。
「僕は平気なのですよ、あぅ」
診察室から羽入の声が聞こえる。
そっと顔を覗かせると、困ったように椅子に座らされているようだ。
「しかし……日射病は怖いですからね」
「あぅ。入江も鷹野も心配しすぎなのです」
「でも羽入ちゃん、さっきあんなに元気なかったじゃない」
「あぅあぅ。さっきは本当に暑さでぼーっとしていただけなのですよ」
どうやら、羽入が咄嗟に吐いた嘘が大事になりつつあるらしい。
鷹野はにこりと微笑むと、レナ達部活メンバーをとりあえず待合室へと移動させた。
鷹野が戻ってくると、羽入は困ったように溜息をつく。
「僕を心配してくれるのは嬉しいのですが、少し大げさ過ぎるのですよ」
「仕方がありません。あなたはオヤシロ様の生まれ変わり、と言われているくらいですしそれに我々にとってはあなたはなくてはならない存在なのですから」
入江がそう言うと、羽入は顔を俯かせる。
なるほど……入江機関はちゃんと存在しているようだ。
もう一つわかったのは、この世界では羽入がオヤシロ様の生まれ変わりとして存在し、女王感染者ということのようだ。
「本当に大丈夫なのですよ」
「それじゃあ、少しだけ検査しておきましょう? 日射病は怖いのよ?」
結局羽入はそれ以上何もいえなくなったのか、鷹野と入江に従い検査を受ける事になった。
血液検査の結果を待つ途中、羽入が私の姿を見つけ話しかけてくる。
最初、返事をするか迷ったがいつのまにか落ち着きを取り戻していた私はそっと羽入の隣へと移動した。
「さっきはごめんなさい」
「あぅ。僕こそ、あの状態の梨花を放っておくことになって申し訳ないのです」
「かなり落ち着いたわ」
「あぅあぅ。結局、さっきの梨花が言っていたのはどういうことなのですか?」
「……その話は、今夜しましょう。家はどこだったかしら?」
「家、とは何を言っているのですか?」
羽入は首を傾げる。
私が聞いているのは、沙都子と一緒に神社に住んでいるのかそれともこの世界は少し違って別の場所にいるのか、だ。
けれど羽入からすればおかしな質問に違いない。
どう返すか迷っていると、羽入は困った顔をしながらも、古手の実家に住んでいると教えてくれた。
そうか……この世界には両親も存在しているという事なのね。
それじゃあ沙都子はどうしているのか聞こうと思ったけれど、それはまた夜に聞けばいい話だ。
羽入に何も言わずに診察室を出て、部活メンバーの前を通りすぎるとそのまま羽入が住んでいるという古手の家へと向かう。
途中すれ違う人たちに挨拶をしてみたけれどやはり挨拶が返ってくるなんて事はない。
これは間違いなく前者の私が存在しない世界なのだ。
もう一つ考えている事があるけれど、これはあまり当たって欲しくないので考えないでおく。
来た道を戻り、古手の家に着くとなんとなく懐かしい香りがする。
それは何度も食べた事のある母のあまり美味しくない煮物の香りだ。
そっと、台所を覗くとそこには私が知っている母の後姿。
呼びかけてみようか迷ったけれど、それは今まで散々試して裏切られてきている。
母の姿を見て、ここが私の知っている世界ではないと確信したのだし、もういいだろうと台所から自室へと移動しようとした時、母がはっとした様子で振り返った。
「……お母さん?」
思わず呼びかけてしまう。
母は私がいる場所をじっと見詰めた後、首を傾げてまたコンロへと向き直ってしまった。
「お母さん、見えてるんじゃないの!? ねえ、こっち向いてよ!!」
一瞬でも期待を抱くと、こうして壊れてしまう。
私は母のエプロンを掴み何度も呼びかける。けれど、母のエプロンは揺れないし、そして何も気づかない。
「はは……そうよ、ね……何を期待しているのかしら……! 私は居ないのよね、そうよ。あんたの娘は羽入なんでしょう? あの、あうあういって普段頼りのない羽入が娘なのよね! ああ、期待した私が馬鹿だったわ!!」
ふらふらと自室へ向かい、羽入のベッドに転がり込む。
部屋の内装は、私の趣味と少しにしていて少し違う。そんな感じがまた気味悪い。
しばらくぼーっとしていると、部活メンバーの声が外から聞こえてくる。
窓から様子を伺うと、羽入を見送りに来たようだ。……ずいぶんなご身分じゃない。
それぞれ別れを告げると、羽入は玄関に入り今度は家の中にただいまの声が響く。
母の少し楽しげな声が耳に痛い。
「……梨花」
雑談を交わした後、自室へと羽入が戻ってくると私の姿を見て驚いたように呟く。
あの後何処に居るのかわからなかったのだろう。
「探しましたですよ」
「そう」
「お話は出来そうですか?」
「……その前に夕飯なんじゃない? あの人のことだから時間には煩いでしょう」
「お夕飯はいらないと言ってきたのです。レナのお家で頂いたって言ったら少し叱られましたが、それならいいって言ってもらったのです」
「そう。少しは柔らかくなったのね」
「……? お母さんはずっと前から変わっていないのですよ?」
「あっそ。あんたの母親になるとそうなるって事じゃない?」
「梨花、いい加減僕にもわかるように話をして欲しいのですよ……」
羽入はそう言うと、今にも泣きそうな顔をしてその場に座り込む。
そうだ。この世界の羽入にとって私の態度はイレギュラーに違いない。
私が羽入に当たったからといって何も生まれないのだ……。
「ごめん。正直私もちょっと戸惑っているのよ。だから、あんたに当たってしまうだけ。……いいわ、落ち着く。だからあんたも落ち着いて聞いて頂戴」
羽入はこくりと頷く。
私はゆっくりと、途中説明を交えながら私が元いた世界の事を話す。
私が八代目の女の子でそして、オヤシロ様の生まれ変わりだという事。
羽入はどうやらオヤシロ様らしいという事。
そして、入江機関というものが存在しそこは雛見沢での風土病を調べ、そこに所属する鷹野が実は黒幕で私を殺そうとしていた事。
幾多の世界で私は鷹野に殺され、(時には自殺もしたけれどそれは伏せておいた)羽入の力で何百年もの間同じ昭和58年を繰り返し、ようやく袋小路を破る事が出来たという事。
羽入は途中、わからない事は質問しそして鷹野の話にはやはり驚いていた。
私が両親不在で沙都子と一緒に暮らしていると口にすると、予想通り悲しげな表情を見せた。
一通り話し終わると、羽入はポロポロと涙を零す。
一気に話すべきではなかったのかもしれないけれど、聞いてもらわなくてはいけなかった。
しばらしくて羽入が落ち着きを取り戻し、今度は私が聞く側にまわる。
「えっと……簡単に言うと、僕と梨花の立場が逆、ということなのですか?」
「そうね。最後の世界ではあんたも表舞台に立ったけれど、他の世界では今の私の状態だったわ」
「そうですか……。それじゃあ、梨花の質問に答えていきますのです」
羽入は、私が聞き手に回る前に質問した事に答えていく。
「まずは、診療所の事なのです。梨花が元いた世界、というのでは所長が入江だったようなのですが、ここでは高野が所長なのです」
「所長の高野と、今日あそこにいた鷹野の関係は?」
「……? 今日、入江や富竹と一緒に居たのが所長の高野なのです。梨花の世界で高野は別の人だったのですか?」
「え……? でも鷹野の苗字は『鷹』に『野』でしょう?」
「いえ、高いの『高』なのです」
「意味がわからないわ……ごめん、続けて」
「あ、はい。風土病のことは僕も知っています。両親にも話はいっていますし、お母さんは最初反対していましたですが、高野の熱心な説得によって今は納得していますです。それと、沙都子ですが梨花の世界とは違って、新しいお父さんと上手く生活をして今は家族四人で北条の家に住んでいるのです」
「悟史も?」
「はい。梨花の世界では行方不明になるということですが、悟史はちゃんといます。今日いなかったのは、野球チームに所属していて、それの練習だったのです」
「そう。悟史がいても、しっかりできてるのね」
「……?」
他にも羽入は詩音と魅音の事も教えてくれた。
本来この事は二人だけの秘密のはずだったというのに、双子が入れ替わっていると部活メンバーにだけ明かされたらしい。
それは意外な事だった。
一番驚いたのは、鷹野と羽入の仲がいいという事だ。
けれど、元々沙都子とも仲がよかったのに、あいつは平気で沙都子までも殺している。
だから本当のところはわからないのだけれど。
羽入の話を整理し、ここが全く違う世界だということはわかった。
そして、私達の立場が入れ替わっているという事も。
この世界では私のほうがオヤシロ様、なのだ……
「じゃあ、今日のあの瞬間まで私はあんたとしか会話した事もない存在で、あんたが今聞いた私の世界での羽入と同じ事をしていたという事ね?」
「はいなのです。ただ、僕は今のところ殺されてはいませんから、欠片を移動するといったことはしていませんが……」
「ありがとう。これだけわかれば充分だわ……」
「梨花……僕を、恨んでいますですか?」
立ち上がった私を引き止めるように、羽入が問いかけてくる。
なんのことかわらかず、じっと見詰め返すと羽入は目を潤ませた。
「その……僕は、梨花の居場所を奪っているという事です。今まで僕は、梨花の事を変わった家族としか思っていませんでしたが、今の梨花にとって、僕のことは憎いと思うのです」
「……それは違うでしょ」
「梨花……」
「最初は本当に意味がわからなかったわ。けど、あんたが望んでこの世界を作ったわけではないのよね? だったらあんたを恨んだって仕方ないじゃない」
それだけ告げると、部屋から出て行く。
羽入は何も言わずに、ただそこに座っているだけのようだった。
本当ならば、いつも羽入がしていたようにすっと消えたいものだけど、まだ今の状態を使いこなせていない。
だから人間と同じで歩いて移動するしかないようだ。
玄関を出た時、ちょうど入れ替わりで鷹野がうちのチャイムを鳴らす。
羽入がさっき言っていたように、時折夕飯を一緒に食べるといった日なのだろうか?
鷹野とお母さんの会話に耳を傾ける事もしないで、そのまま歩き出す。
ふらりと立ち寄ったのは祭具殿。
何か戻れる手がかりはないかと中に入ってみる。
中は蒸し風呂のように暑く、一気に汗がにじんでくる。
なんとか手がかりがないかと探してみたけれど、何も見つからない。
ここにくれば元の世界の羽入となんとかして連絡が取れるかと考えてみたけれど、甘い考えだったようだ。 埃っぽい床に転び、そのままぼーっと天井を眺める。
羽入が言っていた通り、案外ここも落ち着くな。
そんな事を考えながら自然と眠りについていった……
翌朝、祭具殿の扉が開く音で目が覚める。
お父さんが祭具殿の中を掃除しに来たようだ。
久しぶりに見る父の背中は大きくて……飛びつきたくなったけれど我慢する。
祭具殿を出て、どこに行こうか迷っていると私を待ち構えていたかのようにして羽入が声をかけてきた。
「梨花、夕べは何処に行っていたのですか?」
「別にそう遠くには行っていなかったわ」
「心配したのですよ……?」
「そう、それはごめんなさい」
そっけなく返すと、羽入は一瞬戸惑った表情を見せたが、怒ったような表情に変わり私の腕を掴む。
「何!?」
「いいからついてくるのです!!」
ぐいぐいと私の手を引き、すれ違いざまに挨拶されても何も返さず羽入は歩き出す。
本気で振り払えば羽入になんて負けるわけがないのだけれど、何故か私はその手を振り払う事が出来ず手を引かれるがままについていった。
連れて行かれたのは高野診療所。
頭がおかしいとでも言って診せるつもりなのだろうか?
そんな事を言ってしまっては、羽入の方がおかしいと思われるのに。
「羽入? ちょっと、どうしてここなのよ!?」
「いいから梨花は黙ってついてくるのです!!」
羽入はまだ診察が始まっても居ないのに診療所に入ると、今度はノックもせず診察室に足を踏み入れる。 朝礼が行われていたのか、診察室には鷹野と入江がいた。
入江が驚いたように口をぽかんと開けているのとは対照的に、鷹野は何も言わずにっこりと微笑むと所長室の扉を開けた。
「入江先生、少しよろしいですか? 私は羽入ちゃんとお話がありますので」
「え? あ、はい……?」
入江が頷くと、鷹野は先に所長室へと入っていく。
羽入は入江に挨拶もせず、そのまま私の手を引いて鷹野の後に続いた。
私達が入ると、鷹野は扉を閉めさらに鍵をかける。
羽入にソファに座るように告げると私達はソファに腰掛けた。
鷹野は冷蔵庫からオレンジジュースの缶を出し机に並べる。
何故か、二つ……
「え!?」
「昨日言っていた子は隣に居るのよね?」
「はいなのです」
どうやら私の姿が見えているというわけではないらしい。
鷹野は私の前に立つと深々と頭を下げた。
「え? ちょっと、羽入、どういうことなの?」
「高野?! どうして頭を下げるのですか?」
こればっかりは羽入も予想外だったようで、私と同じく戸惑っている。
鷹野は頭を下げたまま震えた声でその理由を告げた。
「私を……高野三四を、助けてくださってありがとうございました……っ」
「私はね、一度死んでいるの」
やっと頭を上げてくれた鷹野は、落ち着いたようにして私の前に腰掛けるとそう話し出す。
鷹野の一言に私と羽入は思わず顔を見合わせた。
「あ、別に私がゾンビだとかそう言った話ではないのよ。ただね、私の両親は私が幼い頃に亡くなっているの。私の本名は美代子って言うんだけど、その時一緒に死んじゃったのよ。でね、それは最低な施設に入れられたわ。それを救ってくれたのが、高野一二三っていう人なの」
「高野の新しいお父さんなのですか?」
「お父さん、というよりはお爺ちゃんだったわ。その人に助けてもらえて、高野三四に生まれ変わったのよ。それからいろいろ知ったわ。この雛見沢の事もね。そして、いろいろあって私はここに来た。その時はね、本当はこの風土病を治すために来たんじゃなかったの。お偉いさんたちはね、この風土病を利用してある事をしようとしていた。私は、別にここの村がどうなろうと知った事じゃなかったわ。私はね。おじいちゃんの研究が認められて、二人で神になる事ができればそれでよかったの。最初はずっと、入江先生が所長としてくる話で通っていたわ。もうすぐ入江機関が完成する。そんな時、私は羽入ちゃんが言うオヤシロさまに出会ったの」
鷹野はそう言うと、小さな包みから一つの十円玉を取り出した。
羽入はそれをまじまじと見、そして首を傾げた。
「信じてもらえないでしょうけど、これはここの神様……オヤシロさまに宣戦布告をした時にお賽銭箱に投げたはずだった十円玉よ。それがね、弧を描いて戻ってきたのよ」
「どういうことなのですか?」
「驚いたわ。帰ってきた十円玉を拾うと、賽銭箱の向こうに一人の女の子が立っていたの。髪の長い女の子だった」
羽入は私のほうを見てもう一度鷹野を見る。
そういえば羽入が一度、鷹野に宣戦布告をされたと言っていた。その相手が私になったということだろうか。
「その子はとてもつまらなさそうに言ったわ。『この世界がほしいのならくれてやる。それがあんたの望む世界なら、いいじゃない。私はこの世界よりもっといい世界を知っている。この世界があんたの手によって滅ぶのならば、そっちに行くから好きにしなさい』ってね。凄く腹が立ったわ。だから、絶対に神になってやるって尚更思った。お前を神の座から引き摺り下ろしてやるともね」
鷹野の会った私は、もしかして私が居る世界を知っていたという事なの?
「でもね、気づいたの。おじいちゃんが言っていた神になるって、こういうことじゃないって。おじいちゃんはこの風土病を治そうとしていたの。名前を残すために研究をしていたけれど、私は違う形で残そうとしているんだって。オヤシロ様に言われて、それからがむしゃらになって、初めて気づいたの。オヤシロ様があの時私投げやりの言葉を掛けてくれたおかげで、私は入江機関の研究をとめることが出来た。お金はたくさんあったもの。殺されると思ったけど、あっちはあっちで私がこの村と心中することが怖かったみたいね」
「それで、高野はり……オヤシロ様に、感謝していると言っていたのですか?」
「ええ、そうよ。だから昨日羽入ちゃんが自分の友達が悩んでいるって話してくれたでしょう。そして、その相手がオヤシロさまだとも。最初は信じられないって思ったけど、オヤシロ様が元居た世界のことを聞いていくうちに信じたのよ」 鷹野はそう言うと、羽入に微笑みかけた。
羽入は私のほうへと向き直る。
「梨花、昨日の話は全て高野に話したのです」
「私があそこで終末作戦の準備を止めなければ、進む私の未来だったのよね」
鷹野はそう呟くと、彼女には似合わない涙を零す。
そしてまた、頭を下げると今度はもう言葉にならない謝罪を繰り返す。
彼女に助けが必要です。
そう、助けが必要だった。元居た世界ではそれが少し遅かっただけ。
鷹野にもっと早く救いの手が差し伸べていられたのなら……きっと、この世界のようにして彼女は過ごしていたに違いない。
私はすっと立ち上がると、泣きながら私に頭を下げている鷹野の頭を撫でる。
そして、この世界に来て初めての笑みを浮かべた。
「ボクが元いた世界でも、鷹野の事を責める人はもういないのです。ボクたちは皆、鷹野の帰ってくる席を空けて待っているのですよ。確かに鷹野はボクをいっぱいいっぱいイジメてくれましたが、それはもういいのです。ボクには新しい未来が切り開かれたのですから」
「……私を、許してくれるの?」
話が出来るわけがないのに、鷹野はまるで私の声が聞こえているかのようにして質問をする。
少し驚きはしたが、私はそれには何も言わず、大きく頷く。
「当たり前なのです。次の綿流しのお祭りこそ、一緒に遊ぶのです。そしてボクたち部活メンバーにやられて罰ゲームを受けるといいのですよ。それでぜ~んぶチャラなのです」
「あり、がと……っ」
鷹野はそう言って大粒の涙を零す。
それを手で拭ってやると、次第に胸の奥が熱くなる。
何事かと戸惑っていると、意識がふと遠のき羽入の声と鷹野の声が遠く感じた。
「ありがと……」
鷹野のその言葉が耳に残る。
「梨花!? 梨花!?」
その後に続く羽入の声。
ああ、もう、なんなのよ……
「……か……り……か!」
はっとして目を開けると、一気に眩しい光が目に入り思わず目を細める。
もう一度ゆっくりと目を開けると、がばっと何者かに身体を押さえ込まれた。
「な、何!?」
今度はなんなの!? そう口にしようとした時、耳元で泣き声が聞こえる。
「梨花ぁああ……! 梨花ぁぁあ!」
それが羽入のものだと気づくのに少し時間がかかった。
その後、次々と私の顔を覗き込まれる。
魅音、詩音、レナ、圭一、そして沙都子。
羽入を押しのけ、身体を起こすと周りから安堵の声が漏れる。
「いきなり倒れちゃうんだもん。びっくりしたよー」
魅音がそう言うと、圭一が隣で申し訳なさそうな顔をして頭を下げる。
「ごめん梨花ちゃん! まさか当たるなんて思っていなかったんだ……」
「圭ちゃん、梨花ちゃまのココ。コブになってますよ? どう責任取るつもりですか?」
「はぅ。梨花ちゃんのコブ痛そうだよ、大丈夫かな、かな?」
「圭一さん! 梨花がお嫁にいけなくなってしまったらどうするおつもりですの!?」
次々と皆が話し出す。羽入にいたっては死んでしまったんじゃないかと言い出すほどだ。
情況が理解できずにいると、レナがコブを撫でながら教えてくれた。
「梨花ちゃん、圭一君が蹴った缶に当たっちゃって、そのまま倒れちゃったんだよ。それでレナたちが駆け寄ってもお返事がないから、監督を呼ぼうって話になっていたところだったの」
「ボクは……戻ってこれたのですか?」
そうポツリとつぶやくと、羽入が首を傾げる。
もしかしてあれは夢……?
「とりあえず、一度監督に見てもらったほうが良いね。梨花ちゃん、立てるかい?」
「大丈夫なのですよ、みー」
スカートについた葉っぱを払い立ち上がる。
辺りは最初に缶けりをしていた場所と変わっていない。
という事は、本当に私は缶を頭にぶつけて気を失っていただけなのだろうか?
「羽入……ここは、昭和58年の夏よね? 皆で袋小路を破った先の、58年よね?」
私が小声で問いかけると、羽入はよくわからないといった表情を見せながらこくりと頷いた。
「梨花? どうかしましたですか?」
「……いえ、なんでもないわ」
あれは本当に夢だったのだろうか?
手のひらに震えた鷹野頭の感触がまだ残っている。
耳には許しを請う鷹野の声が残っている……
入江のところへ向かおうと歩き出す部活メンバーの呼びとめ、私は一つの提案を口にした。
「鷹野にお手紙を書くのですよ」
それはとても突発的なもの。
だからみんなはキョトンとした顔を見せ、顔を見合わせる。
けれどその中でも魅音だけがニヤリと笑うと手を挙げ声高らかに宣言した。
「ってことで! 誰が一番鷹野さんに早く戻ってきたくなるような手紙を書けるか競争だよ! もちろんビリには罰ゲーム!」
「それはいいですね。監督の話では、ここに戻ってくるのは渋っているようですし。悟史くんのこともありますから来年の綿流しまでには戻ってきてもらわないと」
「はぅ~。罰ゲームって何かな、かな」
「きっと鷹野さんの実験台にされてしまうに違いないですわ」
「あぅあぅ、それは嫌なのですよー」
魅音がそう宣言したのだから、部活メンバーが盛り上がらないわけがない。
「で、いいよね? 梨花ちゃん」
その問いに頷かないわけがなく……
私はなんとか、別世界での鷹野との約束を守る事が出来そうだ。
「鷹野さん、具合はどうだい?」
白い病室にいつもの時間、いつもの来客が訪れる。
最初の頃はただ泣いているだけだった彼女もいつの間にか笑顔を見せるようになった。
「今日は調子が良いわ……。いつになったら私への検査は終わるのかしらね」
「それは、僕にはわからないよ」
彼女……鷹野三四はぼーっと窓の外の景色を見ながら、優しく微笑む。
「ねえ、ジロウさん。なんだか今日はとてもいい夢を見た気がするの」
「へえ。どんな夢だい?」
「いい夢だった気がするんだけど、覚えていないのよ」
「なるほど、だから気がするなんだね」
「ええ」
鷹野は何かをふと思い出したかのようにして、テーブルの上にあるペンに手を伸ばす。
そして、富竹の方へと向き直ると小さく微笑むと口を開いた。
「ジロウさん、次に来る時で良いから便箋を買ってきてはもらえないかしら」
「便箋? またどうして……」
「なんとなく、よ。ちょっと手紙が書きたくなっただけ」
富竹は不思議そうな顔をしたが、その事を了承し手帳に『便箋 鷹野』と記した。
もうすぐ入江の手から鷹野宛に六通の手紙が届くなんて事は知るわけもなく……
『鷹野へ
いつまでも拗ねていないで早く落とし前をつけに来てもらいたいものなのです。
来年の綿流しにはボクたち部活メンバーとまた戦ってくださいなのです。
罰ゲームでみーみー泣かせてやるのですよ。
早く元気になってくださいなのです。
梨花』
<FIN>
あとがき